小さな出版社エディマンからのお知らせ


by ediman_tokyo
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カテゴリ:戯れ言( 6 )

2009年がはじまりました。
今年もよろしくお願いします。
年賀状は作るのは楽しいのですが、今年もパスさせていただきます。

エディマンでは、今年はついに『ガルシア・マルケスひとつ話』という本を刊行します。
追ってくわしくは紹介しますが、ぼく自身、とても時間をかけて編集した本です。
イラストあり、あの〈マコンド〉の絵地図ありと、お得感もりもり。
これは、ぜひ売りたい、いや売らなければ新年早々大変なことになる!
というわけで、力が入っています。
よろしくお願いします。

さて、日比谷公園の派遣村が話題となりました。
ぼくの友人からもちらほらと村からの便りが舞い込んできます。
厳しい越冬となりそうですね。
今年からしばらくは、軸足を「生活」という方にのせながら、企画を考えていきたいと思っています。
皆さまのご指導をお願いいたします。

では、皆さまも素晴らしい年を過ごされますように。
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by ediman_tokyo | 2009-01-05 11:30 | 戯れ言

たまには

すっかり忘年会のシーズンということでもあり、ぼくも今週一週間はすべて忘年会で埋まってしまった。というか、埋まっているから毎日お酒が飲めて、それはうれしいことだ。しかし、一方で年内という区切りで終えておきたいこともあり、終わりつつある一年を終える喜びと、終わらないでほしい一年を惜しむ気持ちとがないまぜとなった不思議な感覚を味わう季節でもある。


先日は、加藤周一さんが亡くなるというニュースにふれ、ぼくとは世代的にもだいぶかけ離れた人の死を悼む感覚と(これはきっと鶴見俊輔さんの『悼詞』という本の誕生と無関係ではないだろう引きずられた感傷)、一方で(恥ずかしながらもう亡くなっていたと思い込んでいた)レヴィ・ストロースの100歳を迎えたニュースを左右の耳からステレオのように聞くという不可思議な感覚も味わった。


とまあ、脈絡もないことが頭の中をこだまするように、この一年も分裂気味に過ごし、そしてまたしばらくはこの分裂状態を保ちつつ生き延びていくことになるだろうと予感している。


自らの「生活」というレベルは、何ら変わることなく、相も変わらぬ低空飛行ということで、知己のある方へのひと通りの挨拶とするにして、世界的な不況の名のもとに行なわれている、短期労働者へのひどい仕打ちには、憤りを覚えている、ということは言明しておきたい。はっきりと。


イメージフォーラムにおいて上映されたブラザース・クエイ監督の『ピアノチューナーズ・アースクエイク』は、原作をビオイ・カサレス『モレルの発明』においたものだが、原作を離れて世界観を打ち立てる力量にはひたすら感心した。


このような映画は一般的には観賞される機会は少なく(それは批評されることが多いという裏返しになるのも奇妙なことなのだが)、この映画を観るということは、おおよそふだんこなしている一般的会話には挿入されることが少ない「エピソード」として、ぼくという存在を規定していく「エレメント」たりうる、も・の・で・あ・っ・た。


さてしかし、過去の自分の構成物たりえたものにであったものに出会い、出くわし、なおも感じる違和感はいかんともしがたく、それを抱え込んだままにまた世界を読み替えていく作業は、これははたして虚しいことなのだろうか。
明らかに酔っているので、これは続くとしておきたいけれど、ぼくの片一方の頭の中には先日、BOOK246にて行なわれた「ローカリティについて」という対談が渦巻いているということは記しておきたい。
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by ediman_tokyo | 2008-12-15 22:08 | 戯れ言
昨日は映画の試写会に行きました。

『チェ 28歳の革命』と『チェ 39歳別れの手紙』の2本。合計で4時間30分を超える大作でした。
監督はスティーヴン・ソダーバーグ(どうでもよいけど、場内アナウンスでは「ソーダバーグ」と言っていた。それじゃあ、ソーダとハンバーグみたい)、主演はベニチオ・デル・トロ。ネタバレは厳禁ですよね。
前者はキューバ革命に参加した頃のゲバラ、後者はボリビアに渡りゲリラ戦を展開した頃のゲバラを描く。徹底的にリアリティを追求したのだろうということは、音楽を極力使わなかったこと、英語ではなくスペイン語で演じたこと、場面が変わるたびに日付や経過日数が表示されることからもわかる。ナレーション的な要素は排し、そのかわり前者では効果的に、ケネディ政権とキューバの橋渡し的な役割を果たしたテレビ・ジャーナリストとゲバラのインタビューや、国連でのゲバラの演説を挿入(引用)している。後者に関しては、そういったものすらない。
この、いわば劇的なものの不在から、あらためてゲバラの特異さが浮かび上がる。それはつまり、芭蕉風に言えば、「革命を住処」としたゲバラである。革命の「先端」を生きるようになったゲバラ。
これ以上書くと、映画を観ようという人たちには申し訳ないので横道にずらすと、そういえばぼくは、若松孝二の『連合赤軍』も観たのだった。
そこで描かれたのは、革命をめざし、学生運動の流れから有志だけで武装し、ゲリラ戦を仕掛けるべく軍事訓練を行ない、しかし敗走する中でしか行なわれない闘争。訓練中の凄惨なるリンチによる仲間の殺害。「革命をめざす運動」のなかで抱え込んだ抑圧の叫びだったのではないだろうか。
「革命をめざす運動」と「革命」は、まるでアキレスと亀のように、前者は後者に追いつくことはなく、したがっていつまでも別なものなのだ、と思う。

さて、膨大な資料をあたったというこの2本のゲバラ映画だが、ここでもうひとりの人物を想起せずにはいられない。ゲバラが最後のゲリラ戦を戦った国の名にも冠される人物、ラテンアメリカ独立の父とも言われるシモン・ボリーバルと、ボリーバルについて、同じく膨大な資料をあたり、物語『迷宮の将軍』を仕立て上げた作家ガルシア・マルケスである。マルケスならば、ゲバラをどう描くのか。ちなみにマルケスは1927年3月生まれ、1928年6月生まれのゲバラとは同年代である。
手もとのマルケスの年表とゲバラの年表を比べてみると、ゲバラがキューバの革命に参加した頃、マルケスはパリで失職し、革命成就後はキューバの機関誌『プレンサ・ラティーナ』のコロンビア支局の運営に乗り出す。
ゲバラが国連で演説を行なう頃は、原作の映画化を行なっていた。
そして、ゲバラがボリビアの地で処刑された1967年。マルケスは『百年の孤独』を出版したのであった。
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by ediman_tokyo | 2008-11-14 18:36 | 戯れ言

夏休み

毎年のことですが、夏休みはたくさんとろうと考えている。
それが実現できなかったのは、ひとえに自分が貧乏性だからだ。

今年は2〜3週間は休むと、まわりにも宣言していた。
自分が積極的に休むことによって、まわりも必然的に休むようになる、だろうと思う。

しかし、いろんな調整をしているうちに、そんなに休めないことがわかった。

したがいまして、今年のエディマンの夏休みは、以下の通りです。
対外的な案内です。仕事関係の方は、この間そっとしておいてください。

2008年8月13日〜20日。
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by ediman_tokyo | 2008-08-04 12:16 | 戯れ言

杉浦勉さん逝く

残念な知らせが入った。

ぼくのところで出版した『シンコペーション/ラティーノ・カリビアンの文化実践』の編者、杉浦勉さんが亡くなった。

人間であるからには、死は避けられない。しかし、享年55。あまりに早すぎるというほかない。まだまだ、これからやっていただく仕事がある人だった。

杉浦さんについて、ぼくがとくに関心を持ってきたのは、いちはやく複数のアメリカ(アメリカスとかいうよね)という問題群に取り組んでいたことだった。メキシコからの合衆国への移民チカーノや、より広く、ラテンアメリカからの移民ラティーノの動きによく目配りをしてきた人だった。

そもそもは、キューバの作家、アレホ・カルペンティエールの翻訳から仕事をはじめた。1990年代のことだ。『シンコペーション』を出版した2003年は、まさに合衆国で、ラティーノの人口がアフリカン・アメリカンを抜いたといわれるような年だった。地域的に、どうしても活動は地味に見えてしまうかもしれないけれど、いずれも貴重な仕事だった。

ぼくにとって杉浦さんがスペシャルな存在なのは、『シンコペーション』が、エディマンにとってはじめての出版物だからだ。売れ行きは、とうてい自慢できるものではないけれど、自分で本を出すことの、楽しさ、たいへんさを思い知らされた。杉浦さんとの出会いがなければ、もちろんあり得なかった経験だし、この本を通してじつに多くの人たちと知己を得ることができた。編集期間は、何度も朝まで酒を呑んだ。

私事であるが、同書の共編者である、鈴木慎一郎さんと東琢磨さんと合同で長女の誕生プレゼントにバギーを贈っていただいた。その長女がもう6歳だ。この間、ぼくは二人の子どもを育てた。そして、あれから3冊の本しか出版できていない。

杉浦さんの訃報をお知らせしているうちに、自然と偲ぶ会をやろうという話になった。もし、杉浦さんと交流のあった方がいましたら、ご連絡ください。案内状をお送りします。

偲ぶ会で、久しぶりに会うことのできる人たちがいる。おそらく新しい出会いもあると思う。ぼくは、それが楽しみだ。ありがとう、杉浦さん。
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by ediman_tokyo | 2008-07-29 19:55 | 戯れ言

架空の都市を思い描く

ブンガクの世界ではその作品の舞台設定で、架空の都市を持ち出すことはとくにめずらしいことではない。その流れは、一連のロールプレイングゲームによって大きくなり、webの「セカンドライフ」など一部のSNSは完全に架空の都市を形成している。そもそもコンピュータのOS自体が、あるリアリティをともなった「架空の都市」なのかもしれないが、ま、これは「仮想世界」として親しまれているものね。裏付けを持ち出す余裕がないので、推量するのみにする。
さて、ぼくたち読み手/遊び手/会員は、その世界が〈完全に無矛盾である〉ということを前提にして、そこに遊び、そこに楽しみを享受している。だから、一部のバグは、それ自体が価値をはらむということになるのだ。
やがて(というより、現在では速やかに)バグは報告され、架空の都市は若干の変更を加えられる。これをアップデートともいう。これはひとえに、「情報共有」の発想から生み出される現象だと思う。
だけど、ブンガクの世界ではなかなかこのバグが報告されない。なぜだろうと自問してみると、ひとつにはブンガク独特の比喩表現がそれを容易にさせないということ。もうひとつには(自分的にはこちらの方が大きな理由だけど)、やっぱりめんどくさいのだ。
地名が具体的に描かれている、それも自分が知っている地名が出てくるのだったらまだしも、知らない世界だったらば、そこは作者に任せてしまうのが無難な読書だ。そうじゃなきゃ、いつまでたっても一冊の本が読み終わらない。終わらないっていうことはないだろうが、いやになっちゃうのは確かかも。一般読者だもの。整合性がある、と信じて何が悪い!と開き直ったりして。。。
文学史にも堂々と登場するような作品や、「ノーベル文学賞」をとったりした作品ならば、まず間違いなどなかろうと安心してしまう。これってふつうだと思う。でも、そのような作品の架空の都市に、誤りや矛盾や、作品では言明されていないようなことがあったとしたらどうする? ってかどうしよう。自分が読んだものってなによ!? 確かめる術はないのだろうか。どうやって確かめたらよいのだろうか。そんな便利なアプリケーションはいまのところない。絶望的な気持ちになる。
作家のポール・オースターは、若き日にアイルランドを訪れた折、『ユリシーズ』をなぞるように町中をうろつきまわったとあるエッセイに書いているが、何か発見はあったのだろうか。それが原因で、足をかなりひどく痛めたようだけど、この方法は作品内の都市のありようを確認するのに、最良の一手だろうと思う。たぶん、こんなめんどくさい方法しかないのだ。
しかし架空の都市を相手には、こんな方法も役に立たない。う〜ん、どうしよう。さんざん悩むが、やっぱり地図におこしてみるのが手っ取り早かろう。それがいちばん楽なのか? 自問するが、それ以外になかろう。うん、ないだろう。で、それはたいへんなのはわかるが、おもしろいだろうか。というか、それをやってみたら、他人は「おもしろい!」と言ってくれるだろうか。大切な問題だ。
それで、ある作品について、それを読んでいるに違いなかろう人に恐る恐る訊ねてみた。「おもしろい」とそのお方は言ってくださった。

かくして、ある架空の都市を絵地図にしてみようと本気で思い、そのための作業をせっせか行なっているのだ。

注:言うまでもなく、本投稿は、すんごく遠回りな近刊の宣伝である。
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by ediman_tokyo | 2008-03-10 20:41 | 戯れ言